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 屈折は異常ではなく、ひとりひとりの“特性”である

診察室にいると、時々、不思議な人に出会う。 視力検査では「1.2」。教科書的には申し分ない。
私は長年このような声を聞いてきたが、最初の頃は解釈に迷っていた。
視力が良くて不調を訴える――医療者のいわば“常識”から外れているからだ。
しかし、ある時期から思い至った。
視力の数値と、その人が“気持ちよく見ていられるか”は、必ずしも一致しないということに。

「遠くがよく見える眼=よい眼」という呪縛

日本では長く、「視力が良いこと」が正義だった。
学校検診ではC判定をもらえば叱られ、メガネは“悪い眼”の証のように扱われた。
戦後の社会で、遠くの標識が読めるかどうかが生活の質に直結していた時代の名残でもある。
だが、私たちが毎日している作業はどうだろう。
読書、書類、パソコン、スマートフォン――。
じつは「遠くをくっきり見る能力」よりも、「近くを楽に持続できる視界」の方が重要な場面のほうが、圧倒的に多くなっている。 それでも社会の価値観は、まだ昔のままだ。
まるで背筋の伸びた軍服のように、視力1.0に格式を感じ、
そこから外れると“異常”とみなす。

屈折は“異常”ではなく“その人の特性”である

近視にも、遠視にも、独自の「性質」がある。
近視の人は、近くの作業が得意で、細部に注意を向けるのが自然にできる。
遠視の人は、広い範囲をざっくりととらえるのが得意で、動きや場の雰囲気に強い。
私は、
屈折は「病気」ではなく、その人の持つひとつの“特性”なのではないか
と考えるようになった。
性格に「几帳面」「大らか」といった傾向があるように、
視覚にも「近く重視型」「遠く重視型」といった“癖”がある。
そして、その癖は、日々の思考や、落ち着くリズムと密接につながっている。

「見えるのに落ち着かない」理由

たとえば、強い近視の人が、手術で正視(遠くがよく見える眼)になった場合。
私はこれまでに、
術後に落ち着きを失い、集中力が低下したケースを何度も目にしてきた。
“良くなったはずの視界”が、むしろ「自分のリズムを壊してしまう」のである。
長年“近くの世界を中心に生きてきた眼”が、突然遠くに焦点を合わせる生活になる。
それは、右利きの人に突然左だけで生活させるようなものだ。
本来は悪いわけではない。
ただ、その人の特性に合わないだけなのだ。

視力の数値よりも、「その人が楽でいられる視界」を

私は次第に、「正しい眼」を作ることよりも、
“その人らしく落ち着ける視界”を作ることが大切だと強く感じるようになった。
たとえば、視力1.0が出なくても、
  • 本が読みやすい
  • 仕事に集中できる
  • 一日の終わりに疲れが残らない
こうした視界のほうが、よほど“人生に寄り添っている”。
数値上の高い視力は、しばしばその人の生活を苦しめることすらある。

あなたの眼は、あなたらしくていい

人間の眼は、精密機械ではなく、生きた感覚器官だ。
そして、感覚には“合う/合わない”がある。
だからこそ私は、
屈折は「異常」ではなく、その人を形づくる一つの“特性”である
と今も思い続けている。
視界は、あなたの性格や歩んできた人生と同じように、唯一無二でいい。
他人の基準に無理に合わせる必要はない。

今日も診察室で、私はずっと伝え続けてきた。
「あなたの眼は、あなたらしいままで大丈夫ですよ」と。

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